大嫌いな友達
大嫌いな友達がいる。
元々はあまりその子に関心がなかった。友達グループの一人ではあるけれど仲の良い一人という感じで、その子に対して強い興味も抱かなかったし、積極的に二人で話したい、遊びたいと思うこともなかった。その子よりもっと話すのが楽しいと思う友達は他にいた。
時間が経つにつれ、その子はすごく変わった。
どんなふうに変わったかはここでは詳しく書かないけれど、中身も見た目もすごく変わっていったし、その変化は見ていて気持ちの良いものでもなかった。あんまり良くない変化だったと思う。
同じ頃から、彼女は私に対して雑な対応をするようになった。約束をしていても他に遊びの予定が入ればそちらを優先する。マウントを取る。揚げ足を取る。別の友人に私の悪口を言っているのも耳にした。
私は段々その子のことが嫌になって、そのうち大嫌いになった。他の友達に彼女の愚痴をたくさん話した。
そんなに嫌いなら関係を切れば良いじゃんって思うよね。私も思う。でもそうしたくなかった。二度と会わないと思うとなんだか寂しかった。嫌いなのに、会えなくなるのは嫌だった。そしてそんなふうに感じる自分も、とても嫌だった。
そんな時、彼女に対して、私の中に「好き」という気持ちが残っていることにも気付く。
人の感情はブレンドだから、「嫌い」が100%なんてことはなくて、好きと嫌いが混ざり合っていてもおかしくない。そうか、今の自分は、嫌い70%、好きが30%くらいかもしれないな、なんて思う。
私が彼女のことを嫌いになり始めたのは、彼女が変化し出してからだ。彼女自身の変化と、私に対する対応の変化。でももし彼女が引き続き私に対して丁寧な対応をしてくれて、雑に扱わなかったら、私は彼女を嫌いにならなかっただろうか?
多分、馬鹿にしていただろうなと思う。
私から見て、浅ましく見える彼女。理解できない行動を取る彼女を、多分馬鹿にした。私に優しかったら嫌いにはならないけど、下には見る。きっと「嫌い」という感情は、自分に対して無害な対象には起こり得ない。
じゃあ、「馬鹿にする」ことは、好きか嫌いかでいうとどちらだろう?
エネルギーの質で言ったら、「好き」も「嫌い」も、きっと同じなんじゃないかと思う。
呪術廻戦に登場する呪霊、真人が主人公の虎杖悠仁に対して「お前は僕と同じだ」と言ったように、吹っ切れた悪も、貫徹される正義も、きっと神様の目から見たらエネルギーの質は同じだ。
じゃなきゃ、最愛の人が世界で一番憎む人になるこの世界の人間関係の不思議を説明できなくなる。好きは嫌いに変わるし、嫌いは好きに変わるんだ。「愛の反対は無関心」であって、好きと嫌いは反対の概念じゃなく、同質。
でもさ、そもそも私は彼女に嫌な対応を取られていたわけだ。我慢しているから、嫌いになったのかもしれない。じゃあ私だって嫌な対応して良いよね。そう思って、友人グループとの飲み会で彼女と会った時、私は初めて彼女に嫌な態度をとった。されてきた嫌なことに対して、文句を言った。すごくスッキリした。気のせいかもしれないけど、私に嫌な対応をされた彼女は、少し寂しそうに見えた。私と同じなのかな…そんな考えが脳裏を過ぎる。
悔しいなぁ。「嫌い」って感情、厄介すぎる。
大切な親友より、長く付き合っている彼氏のことより、彼女のことを考える時間が長い日だって多かった。本当は好きなのかもしれない。でも、好きになれない。優しくできない。でも、二度と会わないことを選択することもできなかった。これ以上、裏切られることも怖い。
多分、攻撃的になった彼女は、私に対して同じ気持ちを抱いていたはずだ。
好き、という気持ちがなんらかのきっかけでいつしか失望に変わり、裏切られることの恐怖に変わり、それが嫌いと好きのブレンドになる。
私は初め、彼女のことをあまり気に留めていなかった。最初からどこか下に見ていたのだと思う。素っ気ない態度、下に見た態度、尊重しない態度。そういうのは透けて見えて相手に伝わってしまうものだから、きっと彼女は傷付いたのだろう。
「嫌い」は防衛の感情なのかもしれない。
直接的じゃなくても、その人の存在が自分の何かを脅かそうとする時、人は防衛のために「嫌い」を呼んでくる。
彼女は「嫌い」を呼んできた。そして私も「嫌い」を呼んだ。
そこまで考えて、あぁ、彼女とはもう終わりなのかもしれない、と心を納得させることができたような気がする。
彼女への好きも嫌いもまだ心に存在しているけれど、ある意味最初から私が選択していた人間関係でもあった。彼女が「嫌い」を選んだ時私はそうしない選択もできたけど、結局私は彼女を嫌うことで自分のプライドを守ることを選んだんだ。
彼女がどんな人間かということも大事だ。でも私が彼女にどんな姿勢で接するか、そのことの方がきっと何倍も大事なのだと思う。
人間関係は波のように移ろっていく。
もっと、好きになった人を大事にできるかな。自分のちっぽけなプライドを捨てても、自然な心で人を愛せるか。今の私は、そうしたい、と思う。
愛は人生を楽にする。
「すべての悩みは人間関係の悩みである」
アドラーの言葉である。
言葉どおり、世の中に溢れる悩みの全てが人間関係に直接関係するというわけではなくて、全ての悩みは掘り下げていくと最終的に人間関係に繋がっていく、という意味だと解釈している。
(例えば、国家試験に合格できない、というのが悩みだとすると、その悩みの根幹は「就職できないと家族に認めてもらえない」、「社会的に地位がある仕事をしなければ友人や恋人に馬鹿にされる」などの人間関係の悩みに繋がりうる。)
今回は、じゃあ悩みの根本である人間関係とやらをどうにかしたら、人生から悩みなんて消え去るよね。楽に生きれるよね、というお話。
1 なんで苦しまなきゃいけないのかって?愛が足りないからさ!!
対処療法は世の中にあふれているし、実行も簡単なことが多い。
相手に何も求めない、期待しない、付き合う人間を絞る、などは良くアドバイスされる対処療法で、こういった方法で楽になる人も多いと思う。
でもこれらはあくまで対処療法にすぎないから、本当に悩みの根本を断ち切ろうと思ったら、根本的に自分を変えなければいけない。
なぜ人との関わりで苦しむのか。
それは相手から思ったように愛されない、または自分を傷つけられるのが怖い、と感じるからだ。
思ったように愛されなくて辛いなら期待するのをやめれば良いし、傷つけられるのが怖いなら距離をおけば良い。絶対に自分を傷つけないであろう人とだけ付き合えば、傷つくこともない。確かに、対処療法は理にかなっている。
でも本当の原因は自分の中に相手への愛が足りていないがために苦しむことになっていることに、いつまでも気づかない。
「愛」は何も甘いものではなくて、好き嫌いさえも超えた絶対的な何かである。
それは一つの生命への尊敬であり、愛は無条件に存在するものだ。
母親は惜しみなく愛情を子供に与えるけれど、子供から何かを返されなくても不満に思ったりしないし、反抗期の子供にどんなに罵られ嫌われようと、子供のことを嫌いになったりはしない。それは母親の中に愛が無条件に存在しているからで、子供の行動や思考に関係ないから、母親はいつだって愛を注ぎ続けられる。
「愛」は特定の人との間にだけ存在すると思っていた。
特定の人との間にだけであっても愛が存在すると確信できる人は、幸運な人だと思う。
その人は愛し方を知っているし、愛をもらったことがあるのだと思う。
でも本当は愛は全ての人との間に存在するもので、好きな人との間にだけ発生するものなんかじゃない。無条件なのだから、好き嫌いという感情を超えた先にある。そこを間違えるから、苦しむことになる。
あなたの悪口を言うあの人の心にだって、あなたへの愛はある。
そしてあなたの心にも、あなたの悪口を言うあの人への愛はある。
見ようとしないから見えないだけで、愛は無条件に存在しているからだ。ただ見ようとしないだけだ。
2 全ての人に対して、愛があると仮定しよう。
実際、どんな人にもあなたへの愛はあると考えるとすごくハッピーになれることは確かだけど、今回は逆で考えてみよう。
あなたの心には、どんな人に対しても愛が存在する。そう考えるとどうなるか。
あなたが愛している人が、あなたの悪口を言った。
あなたが愛している人が、あなたのことを厳しい言葉で責め立てた。
あなたが愛している人が、あなたのことを傷付けて、裏切った。
とても辛いことで、落ち込むことは避けられない。でも、その人のことをすごく愛していると考えれば、どうにか許せるんじゃないだろうか。すごく嫌だけど、悲しいけど、でも愛している人だから。恋人や家族に置き換えて考えてみても良いかもしれない。あなたが愛を自覚したら、必ず相手が持つ愛だって見えてくる。あなたの中に愛が無条件に存在するとしたら、相手にだって愛が無条件に存在しないとおかしいからだ。必ず、愛は見える。あなたがみようと思えば、自ずと見えてくる。怖がることは何もない。
相手にされた嫌なことを許せたら、あなたはそのことでこれ以上苦しむことはなくなる。馬鹿にされること、一時的に嫌われることだって怖くない。裏切られたって大丈夫だ。その時あなたは愛を自覚しているから、あなたが望むように相手の愛だって応えてくれる。
その時あなたは前述したような対処療法を行っていることに気づくかもしれないけれど、それはもう「対処療法」ではない。愛があることがわかったから、行動が変わっただけのことだ。
「愛」は本当に存在するのか。
そんな真実めいたことは神様しか知らないのかもしれないけれど、大切なのは、愛を自覚することで人生はぐんと楽になるという真実の方だろう。
3 「愛」は無条件に存在する。でも、「愛し方」は練習しなきゃね。
「愛」は存在することがわかった。
でもだからってすぐに上手く人を愛せるようになるわけじゃない。
自分の中にある愛を自覚し、その愛を表現していくこと。愛情を持っていることを積極的に伝えていくこと。それこそが「愛する」という行動であり、人生を輝かせる唯一にして最強のツールである。
「愛し方」については、私が語るまでもなく、フロムが「愛するということ」で語っている。フロムは愛することを技術なのだと説く。技術は練習すればするほどに上達していくものだから、きっと練習を続ける限り私たちは人生をどこまでも楽に、喜びを増やし続けることができるのだろう。
ちょっとシニカルであたたかなダーク/コープス・ブライド
さて、本記事が私の記念すべき1記事目のブログです。
前々からブログをやりたいと思っていて、私自身も文章を書くのがとても好きだし、苦にならない質です。でも書こう書こうとは思っているんだけど、なかなか一歩目が進まない。あるあるですよね。私は私の好きなように自由に書く事を大切にしたいし、そうする事で私自身も楽しくて満足する。
ということで、記念すべき1通目は大好きな映画について書きたいと思います。
私のお気に入りの映画。
ティム・バートンのコープス・ブライド
ティム・バートンといえばディズニーランドにあるアトラクション、ナイトメアビフォアクリスマスがとても有名で、コープスブライドという作品については知らない人も多いかもしれない。
内容に踏み込むからある程度のネタバレは避けられないですが、もしこの記事を読んでくれた人がこの作品を見てもきちんと楽しめるように、最低限のネタバレに留めつつ書いていこうと思います。
主人公であるヴィクターは、序盤からとても臆病で情けない性格として描かれている。
彼はヴィクトリアという女性と結婚することが決まっていて彼女との結婚式にむけて準備をするんだけど、彼は結婚の誓いを間違わずに言ったり、式の手順を決められた通りに行うことができない。
要するに、鈍臭いんですよね。
この点、私はすごくシンパシーを感じました。
人は自分に似た人/似た物を好きになることが多く、好きなアイドルや芸能人、小説に至るまでどこかしらシンパシーを感じるからこそ好きになる。かくいう私自身も鈍臭いところが大いにあります。
そしてそんなヴィクターはこれまたひょんなことからコープスブライドであるエミリー(なんと死者!)に対して結婚の誓いをしてしまうことから物語は動き始めます。
さて、この物語を私流に要約するなら、「ちょっとシニカルであたたかなダーク」です。
あたたかい、なのにダークです。
相反する性質ですが、その相反する性質がとても美しく溶け合い、かと言って完全に混ざり合うこともなくマーブル状のように調和しているんですね。
コープス・ブライドは全体を通して少しシニカルです。
まずヴィクターはとても鈍臭い。
鈍臭いし、の世界に戻ってヴィクトリアと結婚するためにもっと頑張りなよ…!なんて観てる方は思うんだけど、やることなすこと上手くいかないし、しまいにはエミリー(コープスブライド)と親交を深めちゃったりする。
近道、要領がいい、なんて言葉はヴィクターとは無縁。
見ているこっちが冷笑的な眼差しになるという意味での「シニカル」さ。
でも、ヴィクターはとてもあたたかい人柄なのが滲み出ている。
そう言った意味での「あたたかさ」。
コープスブライドは灰色の世界だし、死者の世界が出てくるし、なんだかちょっとおどろおどろしい。そういう意味でダークな世界観だし、ヴィクターの両親を含め地上に出てくる登場人物は軒並み冷たい人柄です。格式張っていて威厳がある。そこにあたたかみなんてものはなくて、死者の世界の方がよっぽど楽しくてあたたかみが感じられます。
「ポジティブシンキング」と聞くと良いことのように想像するけれど、実際は良い作用ばかりじゃないのも現実です。鬱病などの心の病を抱えた人に「頑張ろう」という言葉が禁句なように、ポジティブで前向きな言葉では癒せない心だって沢山あります。
だとしたら、少し沈んだ心、憂鬱な心、どうしても頑張れない。力が出ない。
そんな状態の心にダークな雰囲気を纏ってそっと寄り添い、副作用がでないくらいの「あたたかさ」をそっと心に注入してくれる。
そういう、穏やかで優しくて、そしてちょっとダークな映画が、「コープス・ブライド」です。
真夜中に少しお酒を飲んだりしながら、ひとりっきりで観るのだって似合う。
落ち込んで憂鬱な気分の時にも、ぜひ観て観てください。ちょっと心が浄化されるはずです。